昭和51年04月29日 朝の御理解



 御理解 第16節
 「無常の風は時を嫌わぬというが、金光大神の道は、無常の風が時を嫌うぞ」

 昨日親教会の春のご大祭を頂いて、帰らせて頂きましたら、電話がジャンジャン掛っておった。とらせて頂いたら、宮崎のご信者さんからであった。それこそ無常の風、に時を嫌わすほどしのおかげを頂かなければ、おかげにならない程しの、重大なこれは寿命の事ではなくて、まぁいうならば家の寿命とでも申しましょうか。店の寿命とでも申しましょうか。と言う様な岐路にたっておる方のお届けでした。
 けれども素晴らしいそのタイミングが、良かったか実はね、そのお取次ぎをさせて頂いて、今日は親教会の大祭で、実は今帰ったばっかりの所、そこへあなたからの電話。こりゃもう神様が受けて下さる、おかげ下さるという印だよというて、はぁもうそれ聞いて安心しました、と向こうでも言ってたんですけれどもね。そういう矢張りおかげを頂く時には、確かにそういう素晴らしいタイミングが生まれて来るですけれども、まぁその事を、まぁお願いし続けさせて頂いておる訳です。
 だから一応下がらせて貰って、高橋さんと繁雄さんとお茶頂き、お弁当を頂いてあちらから頂いて来とったのを、それでまたこちらへ出らせて頂きましたら、もう丁度久富勇先生のお取次ぎを頂いて、まぁいうならば私はおらんから、まぁちったがっかりしておられたと言った様な感じのお婆さんがここで、もうそれこそのっけから親先生、助けて下さいというてあの泣かれます。
 話を聞きますと、娘が胃癌で病院に入院しておりますけれども、もう手の付け様がないというて、もう手術をするとも言われん。本人娘は胃癌であるという事を知りません。ここで胃癌でおかげを受けられたという方のお話を聞いて、まぁ参りましたという訳です。 もう本当に無常の風がもうそこまで来てるというのですよ。で私はまぁ色々成程この方の道は話を聞いて助かる道と仰せられるのですから、話をしてやってそこから本人の心の中に元気な心が出る。
 例えば教祖様もあのあるもうむつかしかと言う様な病人のお取次ぎをなさった時、なさる時にほんにもう根が尽きておったら、取次ぎのしようがないという意味の事をいっておられますですね。もう本人にもう根が無い。助けて貰いたいというその根が無い。根が無いものは、言わばいくら金光大神とても、仕方が無いという意味のお取次ぎをなさっておられるところが御座いますですね。ですから私は昨日けれどももう是は、けれども矢張り取次ぎ者としてはです。
 そんならもう死の一歩手前にあると言う様な、方達の場合なんか、昨日秋永先生とこの奥さんがお届けしとりました。昨日は竹葉会でしたから、それで又改まってここでお届けをさせて頂きましたが、おいごさんがもう歯医者になられたばっかりで、大変な病気になられて、そしてもう二十日も前でした、まぁ二十日の前に亡くなられたという電話が掛って来て、そしてあのまぁ持ち直すという程じゃないけれども、とにかく肺の中から何かその得体の知れん汚物がいっぱい出たそうです。
 それから本人がえらいこう、楽になられたような風で、それから又意識が戻らんなりですけれども、十何日目にその意識が出て、昨日のお届けを見ると、このあの子供さんがあの目にこうバンソーコが貼ってあるそうです。それを時々取られるそうですが、そのものを言うと、ものを言う方へこうやって顔を向けられるて、医者はそう意識があって、そういうしよるとじゃないて言うそうですけれども、そのあちらのお父さんと、それからご兄弟、熱心に参って見えます。
 もうご自分も体が大変悪いのですけれども、まぁ子供を助けたいの一念ですね、矢張りあの歯医者さんです。みられますがもう私は、これ神様のおかげと思わにゃおられんというてその、秋永先生の奥さんに話されたそうです。子供がものを言うと言う方へこう目を動かされる。と言う様にですねもう本当に無常の風にもう取巻かれておる様な状態です。けれども只医者は、只医学の上ではどうにも説明できない状態、で二十日まで続いてあのまぁ生き延びのおかげを頂いておられるという方なんです。
 でそう言う様な幾らもそんな、お願いがいっぱいあっとります。それをあの取次がせて頂くのですから、昨日のその吉井からお参りをしたという、あのそのお婆さんのお届けもです、もういうなら本人には、もう根が無かろうけれどもです、取次がせて頂いた以上、なんとか助かる手立てはなかろうかと思うわけです。そこでほんに昨日三井教会で、吉木先生のお説教の中に、三代の吉木辰二郎先生が。
 ある教会の先生が肺病で休んでおられる。その方に対して手紙を書いておられるその手紙を、最後に読まれました所の一節をね、私は話してあげました。けれどももう話してあげてどうと言う事じゃないけれども、とにかく天にも地にもいうなら親一人、子一人天にも地にも掛替えのない、それはあなたの親だと。またその親に安心させたり喜ばせたりするのも、天にも地にもあなた一人しかいないのだと。あなたがもし肺病で死んだとするならば、その残された母がどんなに嘆く事だろう。
 こんな親不孝があるものかと。親孝行したいの一念で助かれという意味の事を、まぁ長々と手紙を書いておられる。そうですね私はそういう例えばならその、もう重態という病人であっても、自分がこの若さで死んで親に嘆きを見せる様な親不幸はしたくない。いやさせられん。神様どうぞ親孝行がしたいの一念で助けて下さいといわゆる筋道も立つ。そういう願いを持たれたら、神様への願いの筋も立つという訳なんですけれども、これはまぁ病人に一つの根があればの事であります。
 けれども根のないもう医者は難しい、例えばならあの善導寺の昌一郎さん達の場合なんかはそうですよ。もう本人なんかは全然根がないのですからね。医者はもうむつかしかと言ったのですから、親戚の者葬式の準備してまぁ危篤と言う様な状態の中ですから。そこに親のまぁいうなら一心というか、の信心によっておかげを頂いて、まぁ今日おかげを頂いておられる。これなんかも正しく無常の風に時を嫌わされた一例です。だからこれは寿命だけの事ではない。
 昨日なら私がお取次ぎさせて頂いた、あの宮崎県の○○さんの場合でも、これは家のいうならそのお店の寿命に関わるような大変な問題である。だからそういうお取次ぎをさせて頂くのですから、これはとても普通の信心じゃ出来んなと。これはもう私は何時も思わせて頂く事ですから、もう本当により力を頂き、よりおかげを頂かせてもろうて、神様の愈々御神縁を頂かなければならない。
 どういう信心させて頂いたならというのは、こりゃもう何時も私の心の中に、それこそ明けても暮れても、その事ばっかりを思い続けておる訳です。したら今朝方からねお夢を頂いた。そのお夢というのが面白いお夢でしたが、あのもう今は止めておられるでしょうかね、漫才師にあのトップ・ライトちゅうのがおったですね、あのそのトップ・ライトが私の贔屓らしいんです。それで二人に今日は夕食でもご馳走するから、付いて来ないかと言うておる所です。
 ほれであの向こうも丁度、まぁ退屈しておる様な状態でしたから。それじゃあの連れていって下さいというて、確かにトップ・ライトを連れて、まぁどこか食事にでも連れて行こうとしておる、所で途中でそのトップ・ライトが変わってしまって、文男さんに正義さんに、高橋さんに繁雄さん。四人ば連れて行きよる道中でした。そして目が覚めた。私は思わせて頂いて、是はまぁ私の願い理想である。トップと言う事は、私はこう意味が分からんけれども、まぁトップに立つというから一番という意味だろう。
 ライトと言う事は、まぁ私は光りと言う事だろうと思うた。私が日本一本当に有り難い私になりたいと。是は私が皆さんに何時も言う。日本一になるてんなんてん、とても恐れた事ですけれども、日本一の力持ちになりたいとか、偉い人になりたいというならば、私共がそれが願って出来る筈がないけれども、有り難いという意味においてならば、誰でも願われる。こりゃ私だけじゃない。
 頭が悪かろうが器量が悪かろうが、良かろうが。有り難くならせて頂きたいという道ならば、誰でも日本一を願う事が出来るんです。又そしてそれに近付いていく事も出来るのです。それは信心勿論信心によらなければなりませんけれども、信心をしておれば一年一年有り難うなって来ると仰るが、一年一年どころではない。もうそれこそ日に日に有り難うなっていくと言う様な生き方を身に付けていったら、本当に日本一有り難い私になれるという事は夢ではない。いやそれは無謀と言う事ではない。
 私だけじゃない皆もそういう願いを持つならば持てれるんだと。そう言う様な私は事だと思った。いうなら光りのトップに立つと云う事。そして私はやっぱり思うた。そのトップ・ライトというのは、いうならば漫才師である。いうならお話家である。いうなら口ばっかりである。だから私が日本一有り難い私になりたいというのが、いうなら口ばっかりではいけんじゃないか、と言う事であると思うた。そしてならここでまぁ私も願や、私の事も又一生懸命願うて下さるその方達の3、4人の方。
 又私に打ち込んで奉仕をして下さる方達。とその途中で変わっておったと言う事がです、これはまぁここの御信者さんを代表するもの。中でもなら朝の御祈念にでもこうしてお参りをして、本気で信心の稽古をさせて頂こうという人達。本気で真の信心が分かりたい。真の信心いうならば信心の真を現し、現させて頂きたいと願いを立てて、この様に信心の稽古に通うて見えられる皆さんの事だと私は思うた。
 そこで私と一緒になら料亭にご飯を食べに行きよるのですから、私と一緒にままになって行こうというのですから、皆さんも矢張りですなら日本一有り難い私にもなろう。まぁ日本一がちっと大げさであるならば、合楽一有り難い私にならせて頂こうと言った様な願いの人達の集まりでなからなければならないと言う事で御座います。このおかげばいっちょ頂きゃ良いと言った様な、いうならば小さいものではなくて、ね、合楽一の有り難い私にならせて頂きたい、と言う様な願いを持っての信心の稽古。
 そういう稽古をさせて頂く人、又それを取次がせて頂く人がです、一つにならせて頂く様な所からです、それこそ夢にも思わなかったようなおかげ。まぁ今日の御理解で申しますならばです、昨日私がお取次ぎさせて頂いた、幾人ものいうなら無常の風に、もう取り囲まれる様な人達のような場合でも、その周囲の無常の風を追い払えるだけの力が頂けれる信心とは、それを願いそれを精進させて頂く以外にはないと言う事であります。そしてならこれは私だけではいかん。
 私と一緒にですままになると言う為にはです、勿論それは私が料亭に連れていっておるのですから、私がお金を払う事でしょうけれども、私と一緒に同じものが食べれられるという、一緒にままになれれるという、例えばここで信心の稽古をなさって、色々神様にお知らせを頂いたり、御心願を頂いたり、御神夢を頂いたりする方達がありますがです、どうして合楽の御信者さん方は、あげなお知らせば頂きなさるじゃろうかという人があります。そりゃもう私だん何十年間お道の教師をしとるばってん。
 神様からお知らせを頂くってんなんてんちゅう事はなかった。だからそげな事のある筈なかった。合楽の信心はそれから、それだけででも間違うとると言うて、言われた先生がありましたぐらいです。けれどもそのそれはどう言う事かというと、私への一つの帰依というものは、私を親先生というならば、心からいうて下さる程しの人ならばです、もう私と同じものなんです。
 秋永先生の所の亡くなりましたが、あの妹にサヨコさんちゅうのがおりました。サヨコさんは若いながら、中々熱心に信心も出来ておりましたが、もう非常に的確に色んなお知らせを頂きよりました。そのどうしてこの人が頂くじゃろうか、と言う事を神様にお伺いさせて頂いた時にです、親先生に帰依しておるという意味です。ですから親先生が一緒にうどん食べげいく、子供連れてうどん食べげいく時にです、私はうどんじゃけんあんたなんか他ん安かどん食べなさいちや言いやせん。
 親がうどん食べる時には、子供もうどんをやっぱ食べさせる、そしてお金は親が払うようなもんじゃ、という御理解を頂いた事があるです。だから私というなら一心同体というか、同じものになれば、誰でも私が頂いておる様なものが頂けると言う事になるのです。そういう例えばおかげそういう信心をです、愈々私共私と皆さんとの間の中に、愈々密なるものが生まれて来なければならない。同時に私がもうそれこそ寝ても覚めても思わせて頂く、本気で光りを頂こう力を頂こう。
 愈々日本一の有り難い私にならせて頂こうという、願いを持っておるのですから、皆さんも矢張りそういう願いの元にです信心の稽古、信心をなさっておいでられるとです、初めて私が本当に昨日一日、お取次ぎさせて頂いた幾人の方達のです、本当に無常の風に時を嫌わせて下さいといわんばかりの、お届けを頂かせてもろうて、力強くお取次ぎが出きる様に成る為には、どういう信心させて頂いたなら良かろうか。
 もう愈々一年一年有り難うなるじゃない、日々有り難うなっていく程しのです、信心を頂かにゃそれにはね、唯おかげぐらいな事が焦点であって、有り難くなれる筈は先ずは絶対に有りません。それこそ頂く信心から生みなす信心。自分の心の中に生みなすおかげが又生みなす喜びを生んで行く。また喜びがそれに付いて来ると言った様な、生みなす信心を身に付けていかない限りです、この御理解16節の様なおかげは頂かれないと思います。よし頂かれたに致しましても。
 それは金光大神取次ぎの働きによる事であって、自分自身が頂くと言う事にはならないと思う。とにかく有り難くならせて頂く稽古と言う事は、力を頂くと言う事。又は光りを頂くと言う事。どうぞトップ・ライトじゃありませんけれども、合楽の信心のトップを切って、何時も進んでいけるような生き生きとした信心。いうならばもうほんに、昨日私はある事をお願いさせて貰いよったらね、私は非常にきつかったです昨日は。
 もう竹葉会に出て来ましたけれども、もう冗談ぐらいしか言われんぐらいにきつかったです。そして下がらせて頂いて神様にお礼させて頂いておったら、あのガソリン屋にガソリンば入れてこじゃこてというお声を頂きました。もう丁度私の自動車、例えていうならば、ガソリンが切れておる様なもんじゃった。だから誰の声でか分からんけれどもね、ガソリンば入れてこなこてと言う様なお声を頂いたんですけれども。
 所謂その原動力になるもの。そのエネルギーです。信心にはこのエネルギーが必要です。いうならばもうエネルギッシュなまでのですね、いわゆる根がね尽きたら神様も助けようがないと仰る程ですから。眠かとかきつかてんなんてん時にはもう、いうならガソリンが切れとる時と思うて、そこに自分の信心の工夫をさせてもろうて、おかげを頂いていかなきゃいけんと思うですね。
   どうぞ。